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第1章
一直很喜歡日記本子和十年左右兩部作品,作為一個藤真的粉絲能看到這樣精彩的文章很高興,很喜歡CK筆下的藤真和阿牧。我看這兩篇文章的時候文章已經(jīng)完結(jié)了,錯過了和CK交流想法的機會,一直想寫片長評的,可總是沒太有時間。因為我略通一點兒日語,所以就把十年左右第六章藤真的那片演講稿《人性之光,藝術(shù)之美》翻成了日文,水平有限,但是是很認真的翻得。算是我表達對這兩部作品的喜愛之情的一種方式。如果CK也懂日文可以幫忙指正一下啊呵呵
原文
親愛的先生們,女士們,大家好
丹尼爾先生讓我‘談些什么’,這是我的榮幸;但是,談些什么呢?這讓我思考了很久。
我想談?wù)勔魳,因為,顯然,在座的每一位,都對這個話題感興趣
所以,今天的演講題目為:人性之光,藝術(shù)之美。
在我看來,音樂,可以是表達感情的方式,也可以是寫照自我的途徑。在我自己看來,音樂,是聆聽人性的留聲機。音樂之所以能永恒,在我看來,是因為它包含著很多人類共有的情緒;它能得到一代又一代人的共鳴,從而傳承下去。每一組流傳下來的作品,每一位被歷史銘記的作曲家,都是因為他們將人類的感情升華到了一個高度,讓人們產(chǎn)生了追崇的意愿。這樣的感情應(yīng)該是青出于藍而勝于藍的,是誕生于世間,卻又升華到一個俗世不可及的高度;當(dāng)然,這份情感不是教條一樣的指標(biāo),或規(guī)定。我認為,流傳下來的音樂作品都是向善的,體現(xiàn)著人類對“美好”的永恒地追求;而完美的人格是日復(fù)一日之下的升華,是頓悟,是一個高度上的海闊天空,不是空中樓閣。
在這樣的理解下,要演繹一組作品,所需的,不是制造過多的標(biāo)新立異,不是一味地遵循強弱緩急,而是建立在、如何讓自己上升到作曲家本人的高度,從而了解作曲家本人所要表達的理解和感情之上的、一種進取心。藝術(shù)家,比起技術(shù),和對作曲動機的理解,更重要的,是如何加深自己的修養(yǎng),提升自我的高度。。
是的,每一位作曲家都有自己的背景,自己的經(jīng)歷。他們的詮釋,他們的表達,總有或多或少的不同。這就像宗教一樣,□□教,基督教,佛教,印度教,日本教……他們都有自己的起源,自己的神話,都有自己的神。但是沒有哪一個宗教是勸人作惡的,所有宗教都推崇忠誠,善良,慈悲,自律。我們的音樂家也一樣,他們可以像肖邦或舒曼一般溫柔細膩,可以像貝多芬或柴可夫斯基一般激昂悲壯,但他們都表達著一種□裸地感情,和正面面對這份情感的誠實和勇氣。悲有很多種,小人之心可引人悲,佛祖悲天憫人,也是悲;然而這兩份‘悲’是不同的,前者,無論在高度上,或純度上,都不及后者。
我希望每一位音樂家都將自己做為第一步,做一個善良誠實的人。我有一位朋友曾說過,有些事情,是一輩子都不能做的,一次,也不能做的。他說靈魂很容易被毀壞,而哪怕是一丁點毀壞,這個靈魂就廢了。當(dāng)時,我曾問他,做一次也不行么?佛祖知道?他說,不是的,是你自己知道。
現(xiàn)在,很多音樂家都希望詮釋“美”,而對“美”的理解,在各人眼中是不同的,在各個高度的人眼中,是不同的。我認為,藝術(shù)家,并不需要去創(chuàng)造那些世俗的美,這樣的媚俗玷污了藝術(shù),因為很多‘美’,很有可能是生活中的丑。他們的‘美’,不是世俗層面上那種美,他們的‘美’,在于對人性的、強烈而深刻地認識。
希望大家對音樂,對藝術(shù),有更多的、□裸地表達。這些表達是建立在最本質(zhì)的人性上的,是經(jīng)久永恒的共鳴。這些共鳴需要很多人性的好才能延續(xù),才能在一代又一代的人身上共鳴下去。希望所有的藝術(shù)家,都能成為一位不失自我的、善良的人,因為我相信,只有善良的人才能得到藝術(shù),只有善良的人,才能與千百年來的那些作品產(chǎn)生最本質(zhì)地共鳴,才能很好地詮釋他們,獲得一份“美”。
這,就是我對音樂的理解
謝謝 藤真健司
譯文
ご來賓の皆様、ご友人の皆様、こんにちは。
「何か好きなことを話してくれて」とDanielさんに誘われることは本當(dāng)に私の栄光だと思いますが、一體何を話すのはよいか、すいぶん私に工夫を凝らさせました。
ご臨席の皆様が音楽のことに深い興味があることは言うまでもありませんから、やはり今日わたしは音楽のことを話したいんです。
ですから、今日私の演説テーマは「人間性の光、蕓術(shù)の美」でございます。
私から見ると、音楽は感情を表現(xiàn)する方法だと同時に、自分の有様を描寫するルートともいえます。音楽は人間性が聞けるレコードプレーヤーです。音楽は人間が共通する気分を多く含めばこそ永久なものになります。代々の人間の共鳴を引き起こして伝えられていくことができます。人間の感情をより高いレベルに昇華し、人間に崇拝するさらに追隨する意欲をそそらせますから、作品が伝えられ、作曲家が歴史に銘記できます。この「青は藍より出でて、藍より青し」のような感情は世間に生まれますが、俗世間でどうにも及ばられない高度に昇華します。もちろん、このような感情は教條主義的な指標(biāo)あるいは規(guī)定ではありません。伝えられた音楽作品は必ず善を尊び、人間の素晴らしさに対する永久の追求を表現(xiàn)しているものだと思います。それに、完全な人格は日に日に昇華するもので、たちまちの悟りで、ある高度での広さで、空中樓閣のものではありません。
このような理解に基づき、一部の作品をよく表現(xiàn)するに欠かすことができないのは、新機軸を出すことではなく、強弱緩急にひたすら従うことでもなく、一種の進取の精神です。この進取の精神は自分を作曲家本人のレベルに上昇させることに基づき、作曲家本人が表現(xiàn)したい理解と感情をよくわかるようにするものです。蕓術(shù)家にとって、技術(shù)より、作曲動機に対する理解より、もっと大切なのは自分の教養(yǎng)を高めて、精神の面における高度を昇進することです。
確かに、異なる作曲家はそれぞれの背景と経験を持っています。彼らの解釈と表現(xiàn)は多少とも違うところがあります。これは宗教と同じで、イスラム教、キリスト教、仏教、インド教、神道などは、それぞれの起源と神話を持って、それぞれの神様を信仰します。ところが、人間が悪事を働くことを勧める宗教は存在しません。すべての宗教は忠誠、善良、慈悲、自律などの品格を教義の內(nèi)容にします。音楽家たちも同じで、彼らはショパンあるいはシュ—マンのように優(yōu)しくて細かいですが、一方、ベートベンあるいはチャイコフスキ—のように激しくて悲壯である一面もありあす。どの方面でも、彼らは自分の感情を赤裸々に表現(xiàn)し、それにこの感情に直面する誠実と勇気をも表現(xiàn)します。「悲」という言葉の意味が様々で、小人の心は人間に「悲」を感じさせ、神様が世を憂えることに「悲」の意味もあります。ところで、この二種類の「悲」は違います。前者は、高度でも、純度でも、後者に及びません。
わたしは音楽家たちは自分のことを第一歩にし、善良で誠実な人になることを望んでいます!袱ⅳ毪长趣稀⒁簧且欢趣扦猡浃毪长趣显Sされない」とある友達から言われたことがあります。彼は「霊魂は壊されやすいので、ちょっと壊すと、すぐ壊された」といいました。當(dāng)時、私は「一度でもだめですか、神様が知ってる?」と彼に聞きました!袱いい、自分が分かる」とは彼の答えです。
現(xiàn)在、音楽家たちは「美」という言葉を解釈したいですが、「美」に対する理解は、人によって違います、異なる高度に立つ人によって違います。私から見ると、蕓術(shù)家は世俗的な美を創(chuàng)りだす必要がないで、そのような世俗に媚びることはかえって蕓術(shù)を汚します。ここに言う「美」は実際生活での「醜」かもしれないからです。aここに言う「美」は世俗での美ではなくて、人間性に対する強烈で深刻な認識にあります。9b25f33689《》 @ 皆様の音楽に対する、蕓術(shù)に対するのより多く、より素直な表現(xiàn)を期待しています。これらの表現(xiàn)はもっとも本質(zhì)的な人間性に基づいて築かれて、永久不変の共鳴を呼んでいます。これらの共鳴はたくさんの人間性のよさによって継続され、代々の人を経て伝えられることができます。蕓術(shù)家たちは、みんな善良な、自分を見失わない人になれることを望んでいます。善良な人こそ蕓術(shù)を理解できます。善良な人こそ千年以來の作品ともっとも本質(zhì)的な共鳴をすることができ、それらの作品を良く表現(xiàn)でき、本當(dāng)の美を発見できることを私は信じています。
以上はわたしの音楽に対する理解です。ご靜聴をありがとうございます。
藤真健司
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